■会員の想い
私の難聴履歴書
 以下の掲載は2012年5月定例会で発表した原稿に加筆修正を加えたものです。
 
T.S さん
 の難聴は昭和30年代、20歳代の後半から。いくらか気づいてはいたが、日常生活では、さして困ることもなく、あまり気にならなかった。

 松本から佐久に転任になり、東京オリンピックの年、昭和39年ごろから難聴をはっきり自覚するようになり、長野県内の耳鼻科クリニック、信州大学医学部付属病院をはじめ、最終的には東京大学医学部付属病院で診察・検査をしてもらった。さまざまな病院で、いずれも似たような検査があって、どこの耳鼻科でも診断は同じ。「原因不明」「治療の手段はない」だった。

 昭和43年、佐久の地から諏訪湖畔の職場に転任。年齢的には三十歳代の前半であり、普通なら一番働ける年齢ではあった。そのころにはすでに補聴器を使い、英語の授業を行っていた。仕事で追いまくられていた。

 昭和48年、世界史的には、中国の「文化大革命」のさなかで、日本でも「毛沢東語録」という赤い手帳型の書物が翻訳され売れていた。当時のテレビのワイドショウで、「中国式のハリ治療」が紹介され、「見えなかった目が見えるようになった」「立てなかった腰が立てるようになった」「聴こえなかった耳が聴こえるようになった」「耳鳴りがウソのように消えた」と、話題を提供していた。

 中国針(鍼)の治療効果のメカニズムは名古屋大学医学部でも研究中であることが、 「しんぶん赤旗」(日曜版)で紹介された。中国ハリによる治療に最後の望みをかけ、私は、休職して上京し、治療に専念することを決心した。

 JR山手線大塚駅近くのビルの一角に「K治療院」があり、中国で直接学んできたという鍼灸師が耳専門の治療院を開いていた。中国式のハリは日本のそれよりも一回り太くて長い。何本も耳のまわりのツボや天頂(頭のてっぺん)にもさして、ハリネズミのような状態で20分〜30分、そのままじっとしている。治療院では、当時の日本共産党議長・野坂参三と隣り合わせたこともある。 「1970年代の、そう遅くない時期に、民主連合政権をうちたてます」 と、野坂議長の目は、キラキラと輝いていた。

 1年間続けたが、「私には」聴力の改善は全くなかった。 かえって耳鳴りはゴウゴウと鳴り出した。その後、職場に復職する際には、紆余曲折があった。1年間職を離れて治療しても、全く難聴は改善されず、耳鳴りは以前にも増してゴウゴウとなっている。その状態で、職場に戻れるのかという不安があった。
 
組合役員に付き添ってもらい、何度も復職の交渉をした。「耳の聞こえは少しずつ改善されている。ことに耳鳴りは完全になくなった」と、ウソを言い、なんとか復職することができた。それ以後、何度も耳鼻科を変えて、新しい薬を処方してもらったり、あるいは漢方の薬を試したり、カイロプラクチック(整体治療)をおこなったり、手をかえ品をかえて治療を試みた。しかし難聴は4級→3級→2級とすすみ、耳鳴りもおさまることがないまま、今では100デシベルを超えて2級となっています。
 
S.M さん
 聴者の気持ち

 私の難聴はおそらく生まれつき。小さなときはよく聞こえていたようですが、年齢と共に聴力は下降し、49歳で、感音性難聴両耳100dBになり人工内耳を装用しました。子供の頃に音声言語を獲得できたので発声、発音ともに健聴者と同じようにしゃべれます。

 小学校〜高等学校も普通校を卒業し、会社に就職できました。勤務先はいくつか変わったけれど、特別な扱いも受けずにやってこれたことは良かったと考えてます。

 ・・・こんな風に書いていくと、何も悩まず、苦労もせず、ごく普通に楽しく過ごしてきたみたいですが、振り返ると思い出したくないことばかりです。

*感音性難聴は言葉がはっきり聞き取れないので、板書きの少ない先生についたときは理解が進まず、参考書や図書館で知識を身につけた。

*授業中は、いつ指名されるか?名前を呼ばれることに神経をすり減らした。(自分が指名されたと勘違いして起立し、勝手に意見を言い始めてクラス中の失笑を買ったことも・・・・。)

*あだ名がつんぼの“つん”だったことも・・・・。

*会社では筆談に応じてくれない方もいて、どんなに頑張っても聞き取れずに悲嘆にくれることが度々ありました。

*会話に入れずあやふやにやり過ごしていると、「今なんて言ったか、言ってみて!」と切り返されたり・・・・。

 健聴者に私たち難聴者のことを解ってもらうのは本当に難しいです。どんなに言葉を尽くしてもおそらく完全には理解してもらえないでしょう。難聴は“コミュニケーション障害”であると考えています。人と人を繋ぐ唯一無二の言葉を失くして、ポジティブに明るく生きていけるのでしょうか? 私はこれからも人工内耳を付け、注意を集中し、聞き取れた僅かな言葉を予測変換して文章に直し、会話につなげることを繰り返すのです。

 協会に入会して多くの仲間と出会い、要約筆記と出会ったことでこれから何をするべきなのか見えてきたように感じています。

 “難聴者の未来が明るいものでありますように!”

 
K.A さん
 の難聴の経過について
(1)1996年10月下旬から左耳が詰まった感じがする。耳鳴りもするようになった。心当たりはその前に5日間の休暇をもらい、東北の山々を登山したが(日本百名山挑戦中の為)、10.17に那須岳登山中に途中、季節はずれの雪交じりの強風の為に3時間待機する。この時左耳が冷たい風側だった。これと登山と車の長距離運転の疲れのせいか?

(2)翌年の健康診断の時に初めて左耳の聴力低下を指摘されるが、日常的には不便は感じなかった。

(3)1998年頃から左耳方向からの聞こえが少し不便かな?と感じる事がたまにある程度。

(4)左耳の聴力が低下したので、1999年頃から病院巡り(アッチコッチの)の通院が始まる。でも右耳が正常だったので仕事や日常生活には支障はなかった。(左耳側からささやかれると分からない事がある程度)東京の慶応病院などにも通院した。鼓室内へのステロイド注射も何回か行った。耳鳴りが激しくなる。

(5)2003年頃から補聴器を使用するようになる。

(6)2005年年末に右耳が突発性難聴になる。(寝床に入った途端に目がグルグル回った。嫌な予感がしたが、朝起きると何も聞こえなくなっていた)

(7)すぐ緊急医に行き日赤を紹介され、さらに信大病院への入院手配がされた。

(8)治療をするがあまり回復せず。入院中に松本での「聞こえの相談会」の新聞記事を読み参加する。

(9)松本の聴覚障碍者支援協会の連続講座に参加する。そこでいろいろ勉強する。佐藤さん(松本)とはその時一緒に参加だった。

(10)2006年1月〜2007年6月まで会社は6ケ月間は病欠、1年は休職扱いとなる。無給で、傷病手当金を1年半貰う。2007年6月末で退社となる。

(11)2006年2/23に障碍者手帳交付される。2種6級(内耳性難聴による聴力レベル 右70db、.左90db以上。早く交付してもらいたかったので、入院前の検査により、近くのかかりつけの認定医に書いてもらった。年金は「障害年金」は私の場合はあまりメリットが無かったので、「障碍者の年金開始年齢の特例」を申請し、60歳から満額受給を受けた。(本当は63歳から)

(12)2006年?難聴協会に加入する。

(13)2006年1月の退院以降、人工内耳の手術を信大病院にお願いする。同時に人工内耳の勉強会などにも参加する。2007年4月手術、5月音入れ。音入れと同時に聞こえた。逆に以降のリハビリ・調整での聞こえの向上はあまりなかった。

(14)2006年1月から2007年5月の音入れまでの、1年半は補聴器での会話はかなり厳しく、正に「難聴者」であった。コミは筆談・携帯のメール・FAXが中心。息子が入院中にパソコンを設置してくれた。60の手習いで覚えざるを得なかった。しかし、電話に代わる物として、メール・検索ができとても助かった

 その他〜難聴はストレスが主原因と思います。ヘッドホーンや過労なども。補聴器には30万円台の高級品を2個など100万円近くの出費をした。難聴者は就職活動が大変。私も大変苦労した。でも難聴者の間で其のことがあまり表に出ないことが不思議だと思う。
私たちは障碍者差別を「憲法」に基ずき無くしていかねばならない。そのためには障碍者の権利・福祉・バリアフリー化促進などを理解し、実践化していかねばならないと思います。

 
長野県中途失聴・難聴者協会20周年記念誌(2008年11月30日発行)より
  以下の掲載は記念誌より転載した文章です。投稿者の名前は匿名としてあります。
 
会員から過去・現在・そして未来へのメッセージ 現状と先々への思い
 協に再び入会したが、定例会や要約筆記講座など参加せず、我想いと裏腹に月日は過ぎていくばかり。

 昨年87日間の入院で20kg近く痩せたが、リバウンドして見た目は丈夫そうだが、聴力障害は6級から3級になり、補聴器ないと殆ど聞こえない左右90db以上になった。

 約10年前デビューした浜崎あゆみサンは左耳を失聴。その頃と同じ位に人気アイドルだった方の子供さんが、ろうあ者らしいとTVで見た。

 ノリピー主演の手話ドラマ放送から、カレコレ15年程かな!?‥願わくば‥その十年一昔前に戻って人生もう一度もっとHappyで有意義な特を過ごせたなら。
耳の不自由の辛さや切ない気持が増したのは、3級になってから痛感する「障言」すなわちハードル。

 親や身内や近所に手話できる人は誰もいないので、手話サークルも2年ほど欠席しているんで、手話は使わないと全然ダメ。

 東京の通院時に要約筆記者の派遣を地元の役所の福祉課に依頼する事もあるが、車の免許が無いので市役所まで行くのが億劫な時もある。
東京や地元の病院に通う事が多いので、診察予約の際は、母の耳が頼りであり、やはり遠路への通院は一人では心細い。

 病気の告知の影響もあるけれど、聴覚障害の級が上になってから、相当かなり億病になって毎日が不安で暮れていく。

 ・・と云って・・親と会話するのは、ほんの僅かな用件くらいで、かつて1日5時間以上は話すのが当り前だった自分。ああ話し上手は聞き上手の頃に戻れたら、どんなにか良き人生かしら。
 それか私が生まれながらの聴覚障害者なら、きっと聞こえない自分にビクビクしないで、もっと笑顔でいられるだろう。

 ろう者の手話は豊かな表情で、明るくハキハキしている方も多くて羨ましい。親は手話を学ぶ気は全くないので、現状の我身と老いていく両親の事など先々の悩みは尽きない。

 一番は緊急事態に要約筆記が通院先で叶ったり、介護支援もやって頂けたら、どんなにか有難いだろう。

 海外から日本語の学習を兼ねて、看護師の研修に訪れている外国人に費やされる何千万円かの金額だが、ちゃんと日本語が解り合えて互いの気持が通じるような支援をしてもらえる医療と福祉を心から望んでいる。

 要約筆記者育成の現状も、うやむやにされているような社会の在り方にも思えたり、実際この筆記者の存在や制度すら知らない人が多いだろう福祉。

 障害者になり早10年が経った私・・・あとどれくらいだろうか?命の願い。
 
「要約筆記」との出会い
 が「要約筆記」に出会ったのは、2004年(平成16年)の秋である。
 
 定年退職(平成10年)後は「人生における社会福祉活動はもうおしまい」「難聴を抱えながらも大過なく勤め上げた。これでなんとか逃げ切ることができた」と考え、あとは「ひっそり」と暮らしていこうと考えていた。

 しかし、地域の町内会の役員が順番で回ってきて、私のところには常会長(町内会長)の大役がくることとなった。難聴であることを理由にお断りすることもできるかナア、などと悩んていたのであるが、たまたま市の福祉課の窓口で、必要な時には要約筆記奉仕員の派遣事業があるということを教えていただいた。

 私はそれまで「要約筆記」のことを全く知らなかった。

 白馬村で聴力障害を持つ村議の方が活躍していたということは知っていたが、私は中途失聴・難聴者であり手話ができない。

 人生の途中までは催かに聞こえていたわけであるから、聞こえなくなったからといって、おいそれと手話に移行できるわけではない。テレビで放映される流暢な手話を見て、これは到底マスターできそうもないと拒絶反応をおこしてしまっていた。

 そんな折、「手話ができなくても大丈夫。市には要約筆記奉仕員の登録者が40名近くいる」と福祉事務所の窓口でお聞きし、大変心強く思ったものである。

 「要約筆記」って何だろうか。どの程度にやってもらえるのだろうか。私は不安であった。

 まずは「要約筆記」というものを体験してみようと思い、たまたま市のIT講座の受講に際して、要約筆記者の派遣を福祉課に申請した。講座の当日、おそるおそる会場へ行ってみるとそこに、ものすごく優しい女性の方がいらっしゃって、ニコニコと「ペンペン草のSです」と紙に書いてくださった。

 これ知る人ぞ知る塩尻要約筆記サークルの、というよりも全県のエース一人であるSさんとは、神ならぬ身の知るよしもなかった。

 IT講座は4日間、計8コマの講座で、その間、Sさんの次に現れた方、そしてその次に現れた方、入れ替わり立ち代り現れた方々もすごくやさしい方ばかりで、なによりもみなさん要約筆記の技術がすごく上手でした。

 私はこのときはじめて「要約筆記通訳」というものを体験し、「こういうふうにやってもらえるなら常会長もやっていけるのではないか」と確信し、役を引き受ける決意をしたものである。

 区の常会長会では、区長をはじめ他の常会長仲問も絶大なご理解があり、会議では区長の「みなさんお忙しい中をご苦労様。要約筆記の方もご苦労様」の言葉で始まった。

 私は地域住民約80世帯500名を代表して意見を述べることができた。また、組長会では司会者として会を進行することもできた。その年私の要約筆記通訳の派遣申請は、優に40回を超えた。

 3月の総会では区長が「1常会のサトさんは要約筆記ボランティアの方々の援助で、優秀な常会長として活躍された」と特別発言があった。

 会場から拍手をいただいた。並みの拍手ではなかった。「ワー」という大拍手を私は体感した。

 私は、「要約筆記の派遣事業」の制度を支えで下さっている行政ならびに社会福祉協議会に感謝したい。

 わけても、いつも私たち中途失聴・難聴者のそばにいてくださり、ご自分の貴重な時間を犠牲にして要約筆記のサークル活動にあて、よりよい要約筆記を後進指導にも頑張って下さっている方々に私は、涙のでるほど感謝の気持ちで一杯である。

<後日談>
 もしもあの時、難聴を理由にして役を辞退したなら今頃は世間から、「お気の毒に」 という、(みかけの)同情のみを受けて「ひっそり」と家に閉じこもる人生を歩むことになっただろう。

 しかし今では違う。「耳の聞こえない常会長」として、私は町内では有名人となってしまった。道々で出会う方々が遠くからでも手を振って挨拶してくださる。私が「おはよう」とかの音声が聞こえないことを、皆さんが知っていらっしゃるのだ。

 あちこちから手をよっていただいでいる。もしも私か今、白い手袋をはめて何かの選挙にでも立候補したなら当選してしまうのではないか・・。これは冗談です。

        ♪ 北風吹きぬく 寒い朝も
          心ひとつで あたたかくなる
          いじけていないで 手に手をとって
          望みに胸を 元気に張って・・・・

          <「寒い朝」吉永小百合 より>

みなさん、がんばりましょう。
 
難聴協会の行事に参加した思い出
 が、難聴協会に入会した年に15周年大会がありました。

 大石先生の講演会があり、情報保障はバソコン要約筆記、手書き要約筆記と手話がついていて、感激したことを覚えています。その時席が隣だった女性と普通にお話をしていたら、その女性は、“私は口を見て話をしているヨ”と言われ、聞こえているものかと思ったのに凄いな〜どうしてわかるんだろうとびっくりしたこともありました! 私は今だに口話はよくわかりません。

 今年は20周年を迎えあれから5年の歳月。その間同じ仲間と出会え、要約筆記者との交流もあり元気をもらいました,

 協会例会では特に聞こえの相談会が思い出です。
要約筆記者と一緒にやったことで、コミもとれ、難往者の理解も深まりました。
地域で聞こえに困っている人がいるんだということもわかりました。
その中の高齢難聴者の方、これは、家族にも(開先生のお話)聞いてもらった方が良いねと言われました。

 また、朝ゴミを出しに行ったところ、近所の奥さんも出しに来ていて、お互いにおはようとあいさつをして私は帰ろうとしたところ、奥さんが話しかけてきました。“うちのおじいちゃん聞こえなくて・・・”と困っている様子。やはり家族も困っているのかと。

 今、同じ仲間で忙しい中都合をつけてお茶会をしています。家族も一緒に誘っていきたいと思っています。
 
両耳ろう〜難聴に
 27才まで東京で商人、結婚して10ヶ月目で病に倒れ岡谷に帰郷。診察に行ったら肺化膿症と診断され、即入院8月1日でした。

 8月15日諏訪湖花火大会の「ドドドーン」が聞こえたが、その日を堺に何一つ聞こえなくなった。

 当時の特効薬ストマイ注射の薬害で両耳ろうに、後日に信州大学耳鼻科の診断結果私は一度死んだ人間と言う事は上記の病で治療中、急性腎臓〜腎不全〜尿毒症に99%命は無いと宣告された本人は意識もうろうで(後に知らされた) これも東京で早朝から深夜までせっせと貯め働きそのお陰の体力が強かったと自負。

 4ヶ月の入院生活をへて医師、看護婦さんも良く持ちこたえたねと・・・しかし耳がと言ったら、耳と命とどっちが大切と後の言葉が出なかった記憶。

 27才〜55才まで何一ツ音の無い生活耳は死ぬまで無い物と家族3人を世間様に劣らない生活をと気力、体力の勝負の毎日、日夜奮闘して来た。
  55才の時、人工内耳を知り東京医科大学病院で埋込み手術、失聴原因が人工内耳に取っても最悪、聴神経がやられているのでと目から感じている。聞き取りが悪いがそれまでの人生の過ごし方を量に自身の気持ち様で何なりと解決して行くと言う事に尽きる。

 すなわち何事にも前向きにとらえる、へこんだらそこでおしまい。仕事に対しても出来ないからやらないではなく努力して出来る様にしなければ前進はあり得ない。一度死んだ人間何事も恐くない一心でこれからはやりたい事をトコトンやらなければ生きている価値が無い。

 人生を楽しもうの気甲斐で毎日頑張っている。今年で勤続40年まだまだ出来るよ、やって下さいの言でもう少し現役で、知力は落ちたが、気力、体力はまだ若い者には負けない。世の為?にもう少し頑張る「オヤジ」。最後に人工内耳のお陰で長男、長女、又孫の声が聞こえるのでマー満足かな。
 
私の難聴者協会活動
 こからか耳の奥で感度の悪い駅の構内放送が聞こえる。どこで何を言っているのか分からない。一人だけの静かな部屋なのにジージーと何かがなっている。それが四六時中なので頭が休まるときがない。

 こんな状態で20年、30年、40年もやって来ました。よほど鈍感な性格なんだろうと思うのですが、耳鳴りを取り除く事は出来ないのです。仕方なくこの耳や頭と付き合って40年になりました。

 そして自分と同じ仲間がいることを知って12〜3年になりますでしょうか。今のように情報が多くは無かった時代なので、自分が障害者と言うことも、ましてや難聴者の集まりがあることも知りませんでした。

 仲間を知ってみると、ここでは気持ちを張り詰めている必要がない。とても気持ちが楽でいられます。居心地の良い場所なのです。でも生活基盤である日常生活では自分一人。もう少し身近なところでも、気を張り詰めないで居られると良いのになあ!というのが、私の願いでした。

 治らないと分かっている障害でも自分からその障害を声に出すことは、とっても勇気がいります。仲間や支援者の中では平気で声に出せても、一般の人の中で声に出すのは非常に難しいのです。

 仲間を知り、先輩から「声なきところに福祉無し」と指導されたことや、社会の制度やルールの中で私たちは生かされていますが、制度を利用させてもらうにも実績が無ければその制度自体が衰退していくことも知りました。

 さらに聞こえたふりをしてその場をごまかすことで、自分以外の人を傷つけていたことに気づいたとき、「声に出せない仲間の代わりに自分が居るのだ」と思うようになりました。

 その気持ちが協会活動に繋がっています。要約筆記者の養成や通訳派遣制度の利用、聞きたい催しへの要約筆記通訳付きのお願い、要約筆記通訳付き議会の傍聴、他の聴覚障害者団体への参加など、自分のてきる範囲ではありますが積極的に出かけたり、声を出すように心がけてきました。

 特には家族の事を隅にやり、手弁当で交通費持ちなど多多ありますが、このような活動が出来るのも家族の理解があったからこそでした。

 「私の為はみんなの為」「みんなの為は私の為」の思いて、これからも体が動くかぎり頑張っていきたいと思います。
 
私の趣味と難聴
 には沢山の趣味があります。云替えれば遊び好きと云えます。

 具体的には登山、岩魚釣り、旅行、山菜、きのこ狩り、テニス、写真展見物、スノートレッキング(スノーシュー、歩くスキー)、テレマークスキー等々です。

 人工内耳手術以降(昨年4月、音入れ5月)おかけ様で静かな所での会話にはほぼ100%可能となりましたが、その聞における1年半は私の趣味も大幅に制限されました。幸いにして入院中に息子夫婦が帰省した時に自分達が使っていたパソコンをセットしてくれました。

 理由は耳が聞こえないと、コミュニケーションや電話での問い合わせ等困ると思ったからでしょう。退院後、必死でパソコンを覚えました。

 まず、「電子メール」の送受信です。携帯電話による「メール交換」と二本立てで家族、友人、知人とのコミュニケーションが可能となりました。次に「検索」機能です。

 これは何か知りたい事、調べたい事、問い合わせたい時に大変便利で助かりました。「聴覚障害者」にとってこの二つの機能は必要不可欠と云えます。

 当然趣味で知りたい事〜例えば登山道や山小屋の状況、観光地の営業時間や入場料金(障害者割引の有無含め)、宿、地図、駐車場などはインターネットで「検索」すれば事細かく情報が得られます。

 でも実際に出かけてしまってから(当然参考になる事は印刷して持参しますが)道を開いたり(カーナビがないので)受付などでの場面では苦しました。

 いつもホワイトボードやメモ用紙を持ち歩くようにしました。アウトドアー(屋外)の趣味が多いので熊、落石、雪崩などの心配があり、家族も一人で行くのはいやがりました。

 それでも同行者のみつからない時は一人で行きましたが〜例えば山小屋では皆楽しく会話をしているのを横目で一人寂しく部屋の隅でいました。友人共何回か泊りで行きましたが「会話」が不自由でお互いに残念な思いをしました。

 テニスは休職中の私が寂しい思いをしているのではと職場の先輩がテニスの名人(県下でも年齢別ではトップクラスの人)が気使ってくれて始めました。これも大変でした。

 他にも教えてもらっている人がいるのので私だけ「ホワイトボード」に書いて教えるのにも限度があり、特別に私だけの個人レッスン日を設けてくれ「ホワイトボード」に書いては教えてくれました。本当ありがたい事です。そんなスタートを切ったテニス(硬式)も10月で2年になります。今ではテニスが楽しく練習目が待ちどおしい位です。

 映画は「洋画」はほとんど字幕付なので、良いのですが、邦画は字幕付は少ないので、県の聴覚センターで1回借りただけです。

 アウトドアーの趣味で一番困るのは、人工内耳几スピーチプロセッサ(補聴器も同じですが)が雨や汗に弱い事です。もちろん落ちないように長い「イヤーフック」に付け替え、「水滴防止用カバー」をかぶせます。

 帽子やヘアーバンドを着用、又はタオルでハンカチなどしますがそれでも大汗かく時ははずさざるを得ません。会話ができないばかりでなく危険も伴います(何回か汗で完全に聞こえなくなってしまった。幸いにして15分から2時間で聞こえるようになりましたが)もし壊れてしまったら「買い換え時の」保険の適用ないし、「水、汗」に強いと云う新製品の「フリーダム」は130万円(12月末までは半額だが)もする。
 昨年、今年と2年連続7月に各15日間、北海道へ「登山と旅行」を兼ねて行きました。金がある訳ではなくて「仕事」がないから。ハローワークの「障害者」求職に登録しましたが「難聴者」の仕事はなかなかありません。

 人工内耳の手術後だったので会話はある程度できるので「電話」以外あまり不便は感じませんせんでした。特に印象に残ったのは海を見ながら登ったアポイ岳、北海道の槍ケ岳と云われるニペソツ山、高山植物の宝庫大雪山。

 ヒ熊に注意しながらの「オショロコマ釣り」、大自然の中の秘湯〜岩間、水無海浜、根泊、セセキ、熊の湯などの各温泉。国後島を間近にエゾカンゾウなどの大群落の中を走行した、野付半島「フラワーロード」などです。

 聴覚障害者対策としては、新日本海フェリーの受付窓口に「筆談用具あります」の表示。函館の市電の車内提示に「筆談器あります」。

 北海道のキャンプ場案内パンフレットには全てのキャンプ場の電話番号の次に「聴覚障害者用FAX番号」が明記されていました。

 バリアフリー化や車椅子の配備も進んできました。障害者手帳の提示で旭山動物園(無料)、函館市電、五稜郭タワーのエレベーター、大沼の遊覧船、フェリーの2等寝台料金等が半額でした。

 余談になりますが先日南アルプス南部縦走をしましたが、静岡県営の聖平小屋も割引がありました。(同行した友人が受け付けで冗談半分に聞いたら1500円引になりました)。彼の奥さんは聴覚障害者で彼はダメ元で必ず聞くようです。
 
私が長野難聴に求めていた「聞こえの相談会」
 神淡路犬震災のあった年です。

 職場で健康診断があり、健康相談が設けられました。日頃健康状態で悩んでいることを相談して頂きました。私の相談は、耳が不自由なので聞こえない方の日常生活について、お聞きしたいので、聞こえない方の団体とかサークルを紹介して欲しいとお願いしました。

 2,3日して、看護婦(現在は看護師)から連絡がきて、佐久市内のろう者と手話サークルを紹介して頂きました。翌日、佐久市内のろう者(Iさん)を尋ねました。あいにく不在でしたので家族の方に伝言をして、翌週、手話サークルに行きました。サークルに行くと、Iさんが、この間はありがとうと手話で挨拶をしてくださいました。

 私は、手話は分かりませんでしたが、Iさんの嬉しそうな笑顔が印象的でした。
会場にいた、優しそうな主婦の方が私に声を掛けてくれました。「人生の途中で耳が不自由になった方のために、要約筆記があります」と、おしえて下さいました。

 そう、この人が当時の長野県要約筆記連絡会の会長をしていたTさんでした。そして、その年の2月に、長野県中途失聴・難聴者協会の定例会が小諸市であろので、行きませんかと紹介させていただき、浅間嵐(あさまおろし)の、寒い2月、定例会に初めて行きました。

 会場には、数名の難聴者と3、4名の方が、ペンで何かを書いている様子が目に入りました。よく、様子を見てみると、話し手の言葉をまとめて、書いて、スクリーンに映していました。それを見て、私は、凄いことをしていると思いました。

 これがあれば、手話が出来なくても、補聴器で聞こえが良くなくても、誰もが情報を同時に得る事ができる。Tさんに紹介して頂いた要約筆記に初めて出会った瞬開でした。

 難聴者協会と要約筆記を一緒に知り、私の新しい活動が始まりました。難聴者協会の定例会が月に1回、難聴者の住んでいる市町村で持ち回りということで、定例会にも毎月参加するようになりました。初めて、佐久で私か担当した定例会は、新年会でした。

 そして、2年くらいの歳月経ちました。私の心の中に新たな葛藤が生まれました。
それは、私が難聴者協会に求めているものが違う。なにか、もの足りない不満がありました。そんな想いを、難聴協会の方にお聞きしましたが、私が求めていた回答は見つかりませんでした。

 やがて、役員選挙があり、私は広報部長として当協会の会報「アルプス」を編集することになりました。
私は、読んだり、書いたり、編集をする事が好きだったので、アルプスの編集に力を入れるようになりました。

 当時は、ワープロで編集をしていましたが、分からないことがあり、窪田さんに連絡を入れたら、直ぐに自宅まで飛んできてくれた、日曜日の懐かしい思い出もあります。

 そして、5年間、会報編集に沢山の思い出をつくり個人の都合で、2年間当協会を休会することになりました。休会中は、パソコンに夢中でした。難聴者協会のアルプスは購読していたので、協会の様子はわかりました。

 そして、復帰しました。今度は、パソコンを武器としての活動が始まりました。
長野市でパソコン要約筆記サークル立ち上げの話しをお闘さして、毎週長野市に出掛けました。その、当時は、パソコン要約筆記を覚えるというより、習い始めたパソコンのいろんな機能を学ぼうという気持ちの方が強かった。

 長野県要約筆記奉仕員養成講座に関わるようになり、いつのまにか、事務局の仕事をするようになりました。そして、大きな転機がやって来ました。

 平成17年、6月、高年部全国大会が浅間温泉で開催することになりました。記念誌担当、パソコンを使っての活動に一段と拍車がかかっていました。この大会で、当初「聞こえの相談会」という内容も組まれていましたが、出来ませんでした。

 大会直後、佐久要約筆記グループで反省会を持ちました。そこの席で、要約筆記者から、中沢さん「聞こえの相談会」を佐久でやりませんか?といわれたのがきっかけで、当協会の役員に聞こえの相談会について、お聞きして、佐久で開催することになりました。

 でも、聞こえの相談会と言っても初めてなので、何をどのようにしたら良いのか全然分かりませんでした。ゼロからの出発です。自分で考えた聞こえの相談会案をつくり、高年部全国大会に出席された言語聴覚士の関先生にメールを送りました。

 これから、聞こえの相談会に向けての活動が始まりました。開催日は10月7日に決まり、準備で多忙の毎日でした。相談会は、地域の難聴の方に呼び掛け、聴力測定、個別相談がありました。そして、当協会の難聴者との交流会などがあり、有意義な聞こえの相談会となりました。

 相談会が終わって気が付いたことかありました。私が難聴協会に求めていたものがこれなんだと思いました。難聴協会にはいって、自分の求めているものがやっと見つかった。しかも、それを自分が聞こえの相談会を引き受けて活動をしている中にありました。

 その後、聞こえの相談会は、松本市、諏訪市、塩尻市、須坂市、岡谷市などで開催されています。難聴者と要約筆記者が協力し合って、地域の難聴者に呼びかける運動はとても大雪なことだと思います。

 これからも、聞こえの相談会を当協会のメニュー事業となるように継続していきたいと思います。

♪ 知床の岬に ハマナスの咲く頃
        ♪ 思い出しておくれ 俺たちのことを
              ♪ 飲んで騒いで 丘に登れば
                        ♪ 遥か国後に 白夜はあける

相談会によせて
 は自分の聴力のことが理解できないでいました。

 この会に入って例会には出来るだけ都合つけ参加しています。その中で一番の収穫は、自分の聴力は難聴と聴能障害が一緒になったものてあることが判ったのです。

 みなさん聴能障害って知ってますか? 平成7年7月1日。塩尻会場で聞こえの相談会を聞催しました。関先生が説明してくれました。

 聴能障害とは、聴く力と聴き分ける力の2つの障害のことを言います。つまり言葉を明瞭に聞きとれないと言うことです。

 言葉が飛び飛びと聞こえたり、何を言っているか判らないことが良くありますが、原因が判ったのはうれしいことです。少しは自分かどう言う人間か理解できたことです。

火災警報機
 宅の火事による死者は70%が逃げ遅れによる。

 早く火事に気付くために火災警報器を設置することが進められています。聞こえない人には、警報器の音では無理なので、受信器も必要です。

 警報器「シルタンちゃん」、受信器「シルウオッチ」があります。どちらも給付対象が聴覚障害1・2級です。

 私は障害3級です。眠っている時、警報器が鴫っても起きないと思います。受信機「シルウオッチ」も欲しいが高価なので困ります。聴覚障害者全員にセットで半額にしてでも給付してほしいです。

青春時代の思い出
 話サークルに属していた当時、ある聴覚障害者から「大阪にて全国手話通訳問題研究集会で『中失者への取組み』という分科会があるから参加してみたら」と勧められた。

 その分科会に飛び込んだことから今までの観点とは違った「難聴者運動」を始めるきっかけとなった。その席上では、現在の全難聴の理事長である高岡さんは、当時東京の会長で高年を相手に手話講習会の開催を盛んにアピールしていた事を今でも覚えています。又、この場で初めて「要約筆記」を見た。OHPを使って透明のロールシートで発言者の声を文字に変えてスクリーンに映し出す仕組みでそれを読み取る聴覚障害の参加者は、「この要約筆記とは、便利な通訳である」と確信していた。そして全国の仲間となった難聴者の顔を覚えては付き合い、いつの間にか私は、青年部の役員にも選ばれて活動しました。

 翌年に長野市で全国手話通訳問題研究集会が開かれ、佐久の田村さんの存在を知る機会を得た。佐久では、Tさんと共に一生懸命、要約筆記の事を学ばれていたのが昨日のように思い出されます。
 「手話で結ぶ友の集い」の当時は、毎年の3月の終わりごろに開催があり、難聴者の友を作る機会もあった。残念ながら「協会に入っている手話を使う仲間を引き抜くな」と言う聴覚障害者からの強い警告もあり、いつも気をつけていた。

 手話と話し言葉を使える元気な難聴者の仲間を田村さんに紹介してもらった。「県協会の定期総会では、難聴者の声を取り上げてくれないから自分たちで会を作りたい」と言う仲間の願望を基に又、紹介も含めて三人そろった新年会を更埴で開催した。(何故更埴なのか思い出せない。)縁があってなのか今、私が住む家の近くですが「武水別神社」で祈念して「長野県難聴者の会」がスタートしたのです。定例会は、日時を決めて時々篠ノ井や松本など交通の良い便利の場所で小さいながら会合を持った。色々な活動範囲を広げていくにつれて手話サークルの存在は、いつの日か離れていった。

 現協会への設立転機は、関東でのお付き合いが基に長野県で初めて軽井沢にて会合が開催された。私の力不足を兄に協力してもらって15人の仲間を増やし揃えて「長野県中途失聴・難聴者協会」のスタートに導いて行きました。全国で39番目の設立声明を出し、現在に至った。私の青春は、日々、年々と変わりつつ仲間も入れ替わりしているが協会活動を通して得た体験と仲間をいつまでも守り続けたいと願いつつ、思い出に残して置きたい1ページでもありました。

 終わりに全難聴の初代事務局長の故藤原猛さんが言われた「声無き所に福祉なし」の言葉を胸に刻み紆余曲折しながらも情熱をもって歩んでいます。ありがとうございました。

20周年記念に寄せて
 20年と言う長い歴史を刻んで今日を迎えた事を、会員も一人として、とても嬉しい事と思います。先日、中沢さんから役員メールで、「窪田さんが新聞ヘ投稿して始まった事」とお聞きしまして、その前後の皆様のご活躍など微笑ましいエピソートもお聞きし、感動しました。

 私が入会してからも、もう11年位になるかと思います。入会した頃は、山岸さんが会長をしておられました。誠実で真面日そうな方で、質問すると良く分かる迄説明して頂けました。電車で直江津の水族館に行き、現地の難聴者との交流会に参加した事もあって楽しかったです。

 一番大きな思い出は高年部の全国大会でした。準備でよく県内を走り回りました。とても大変だったけれど、みんな若かったなあと思います。大変だったけれど皆さんと仲良くなれたし、終わった後の充実感がなんとも言えず良かったと思います。大会の内容は、受付の仕事が忙しくてほとんどわかりまええんでしたが、交流会での思い出は後々にも、友達が出来たりして楽しいものでした。

 松尾さんが長い間の女性部長から引かれて、私が女性部長に変わってから3年目になります。広島の女性部の全国大会、千葉県の女性部関東ブロック大会、群馬県の女性部関東ブロック大会、等参加しました。女性部の大会は、身近かの生活して行く上で、聞こえない事で不自由している事などが議題になる事が多く、勉強になりました。

 驚いたのは、役員ともなると皆さん、補聴器や、人工内耳でかなりの聴力があり、私みたいに、全然聞こえないと言う方がいなかった事でした。長野県の協会の中にも聞こえる方が多いけれど、はるかに聴力があると思いました。同室になると部屋の中では普通に話が出来るみたいでした。

 要約筆記の講習会でも大阪、東京、長野等回りましたが、同じ思いがしました。県内での女性部の集まりは、今年は2回やりまして、会場が松本市だと、会員が一番多く集まりやすい場所と思いますし、出席率も良いみたいです。会員を集めて何かをやるのは、なかなか難しいと実感しました。

 何よりも、長野県は広くて、集合地が遠方になると、女ばかりだと集まりが悪い様です。定例会が順番で県内を回るのは、其の地の難聴者や要約筆記者と会えていろいろと知り合える利点があって、良い事とは思いますが、車のない人には移動はなかなか大変な物です。

 私は幸せにもいつも乗せて頂けるので今迄やって来られたと思います。皆さんに感謝しています。若い人の入会が少なくて、今後は会員を確保するのに大変と思いますが、難聴者の心の拠り所があることは素晴らしいことと思います。これからも末永く難聴者協会の続く事を祈りつつ、思いを辿って見ました。長野県要約筆記連合会も10周年を迎えられて、要約筆記講座の折りの講師も素晴らしく、充実、進歩が見られて本当に心強く有難い事です。

 良き時代に生きられる幸せを感謝しております。


長野難聴ホームページのトップへ

Copyright (c) 2010 長野県中途失聴・難聴者協会 All Rights Reserved.